大間越街道(檜山城下〜岩館)概要: 大間越街道は江戸時代に整備され、羽州街道の檜山宿(檜山城の城下町)の手前にある金光寺追分から能代、八森を経て弘前城下(青森県弘前市)に向かう街道です。能代は米代川の舟運と日本海の北前船が寄航する港町で、多くの物資が集まることで重要視され、番所なども置かれていました。特に金光寺から能代までは「能代道」などと呼ばれて、周辺地域にある道標の多くにも能代の名が刻まれています。能代から八森の間は日本海沿いにあった為、正式なルートは特定しづらいそうです。檜山は檜山安東氏の居城である檜山城の城下町として発展した町です。安東氏は元々津軽の豪族で全盛期には現在の青森県にある十三湖の湖畔にあった十三湊を拠点として(居城は福島城)蝦夷から北陸地方に至る日本海海運の大きな利権を手中にて独自の文化圏を築いていました。南部家の津軽侵攻により衰退し、安東氏は蝦夷と秋田に一族が分散し、蝦夷では松前氏、秋田では湊安東氏と檜山安東氏として再び台頭しました。檜山安東氏は檜山城を拠点して秋田県北部を勢力下に置くと、故郷である津軽に何度も侵攻を繰り返し、復権を目指したとされ、大間越街道も中世は軍事的な意味合いが強い街道でした。大間越街道沿いには檜山城の支城である本館城(八峰町八森)を設けて戦略的な拠点としました。能代は古くから良港として知られ、斉明天皇4年(658)に阿倍比羅夫が東夷東征の為、軍船を率いて上陸し、宝亀年間(770〜780)には渤海の使臣壱万福が多くの船員と共に上陸しています。中世に入ると檜山城の外湊として重要視され、安東家の家臣清水治郎兵衛が整備を行い長慶寺や山王権現社(現在の日吉神社)などが創建されています。江戸時代に入ると安東氏は秋田氏と名称を変え常陸に移封となり、檜山城には久保田藩主佐竹家の一族である多賀谷氏が配され、一国一城令により檜山城が廃城になると麓に館を構え「檜山所預」として代々多賀谷氏が支配しました。能代は久保田藩の直轄地となり、能代川舟運と北前舟の寄港地として発展、特に豊富の木材(秋田杉)と鉱山資源(阿仁鉱山)、年貢米などの集積地となり発展しました。又、江戸時代初期は大間越街道が弘前藩津軽家の参勤交代でも利用され、各宿場はその任に当たっています。又、岩館宿は弘前藩と久保田藩の藩境に接していた事から境番所や唐番所が設けられ、人物改めや荷改めなどが行われました。
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羽州街道
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 ● 石川集落へ |
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 ● 手這坂集落へ |
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大間越街道(大間越〜弘前城下)
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