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遊行柳(那須町)概要: 遊行柳は古くから歌枕の地として知られ、平安時代後期の歌人西行法師は「新古今集、山家集」の中で「道のべに 清水流るるや柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」との和歌を詠んでいます。案内板によると「諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るる柳ともいう。伝説によると文明の頃(1471)時宗十九代尊話上人が当地方巡行時、柳の精が老翁となって現れ上人から十念と念仏礼を授けられて成仏したという。いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲にに作られ、又種々の紀行文に現れ芭蕉、蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木崇拝仏殿史的発掘、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。那須町教育委員会 」とあります。室町時代後期には観世信光が西行法師の和歌を題材として上記の案内板のような内容の謡曲「遊行柳」を創作しています。元禄2年(1689)、松尾芭蕉が「奥の細道」行脚の際、那須温泉にある「殺生石」の後に訪れたのが、この「遊行柳」で、「田一枚 植て立去る 柳かな」の句を残しています。松尾芭蕉は西行法師を敬愛しており、「奥の細道」も西行法師の旧跡を訪ねるといった側面もあります。芦野宿の領主である芦野民部資俊は俳号を桃酔という俳人で、松尾芭蕉の門人、江戸蕉門の1人でもあり、芭蕉には自分の領地である芦野宿にある西行法師の縁の「遊行柳」をぜひ見せたいと懇願していたとされます。根元に建立されている芭蕉句碑は寛政11年(1799)に江戸の俳人である井上春蟻が建立したもので句碑には芭蕉が詠んだ「田一枚 植て立去る 柳かな」の句と「江戸 春蟻建立」が刻み込まれています。江戸時代中期には与謝蕪村も訪れており「柳散り 清水涸れ石 ところどころ」の句を残しています。「遊行柳」は謡曲の題材となり西行法師、松尾芭蕉、与謝蕪村の縁の地として貴重な事から那須町指定史跡に指定されています。
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遊行柳
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