小山宿概要: 慶長13年(1608)に本多正純が3万3千石で小山藩を立藩、元和2年(1616)に2万石が加増され、元和5年(1619)には15万5千石で宇都宮城に転封になり宇都宮藩を立藩した事で小山藩は廃藩になり、その後は古河藩や天領、宇都宮藩と変遷しました。小山宿は元和3年(1617)に開設したとみられ、徳川家康が日光東照宮に埋葬されると将軍家が日光参拝の際の休憩所、宿泊所として小山御殿が築かれました。小山宿は江戸日本橋から数えて12番目の宿場町で日光街道、壬生通、結城道、佐野道、栃木道が分岐する交通の要衝として、多くの物資が集積され多数の旅人も利用した事から商業都市として繁栄を極め、天保14年(1843)に記録された「日光道中宿村大概帳」で本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒(大11軒、中27軒、小36軒)、家屋423軒、人口1392人、南北約1.4キロとなっています。現在は道路の拡幅と町自体が近代化した為、古い町並みは殆ど見られず明治天皇行在所として利用された小山脇本陣の玄関が異彩を放っています。
小山御殿・概要: 当地は慶長5年(1600)の関が原の戦いの際に小山評定が行われた場所で、結果的に小山評定に参加した多くの大名が東軍に与して徳川家康の勝利を確定的にした事から、御殿の建設の候補地となりました。御殿といっても、将軍家が利用している最中に襲撃される事を想定し、城郭のように土塁や掘を設けたものでした。
安房神社・概要: 安房神社は崇神天皇の勅願により勧請された古社で仁徳天皇の御代で社殿が再建されたとされます。延長5年(927)に記録された延喜式神名帳にも式内社として記載され当地域を代表する神社です。天慶2年(939)には平将門の乱の平定の戦勝祈願を田原藤太秀郷が行い、鎌倉公方や古河公方など歴代領主からも崇敬庇護されました。戦国時代の兵火により社殿が悉く大破し往時の繁栄は失われました。
天翁院・概要: 天翁院(曹洞宗)は保元元年(1156)に田原藤太秀郷の後裔とされる小山氏によって開かれた寺院で、その後国人領主化した小山氏の歴代の菩提寺となりました。戦国時代に入ると祇園城(小山城)の防衛の一端として現在地に移され、広大の境内には土塁や空堀が設けられました。小山氏が滅ぶと衰微しましたが、現在でも縁の品々を数多く所有し文化財を所有しています。
須賀神社・概要: 須賀神社は田原藤太秀郷が平将門の乱の平定の戦勝を素盞嗚命に祈願し見事、乱を平定した事から神意に感謝し、京都の八坂神社(京都府京都市東山区祇園町)の分霊を勧請しました。その後に領主になった小山氏は田原藤太秀郷の後裔を自称する氏族だった為、先祖縁の当社を篤く崇敬庇護し、領内の守護神として位置づけました。関が原の戦いの際に徳川家康が小山に布陣した際には戦勝祈願が行われ、これも徳川家の勝利に導いた為、歴代徳川家から庇護となっています。
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