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芦野陣屋裏門(那須町)概要: 前身である芦野城は天文年間(1532〜1555)に芦野資興が太田道潅から築城術を学び築城したとも、天正18年(1590)に芦野盛泰が築城したとも云われています。芦野氏は那須地方に大きな影響力を持った那須家の一族で古くから有力家臣の一家として那須七騎にも数えられていました。戦国時代に入ると一族同士で争うようになり、天正18年(1590)の小田原の役では当時の当主である芦野盛泰は本家である那須家に従わず小田原散陣を果たし豊臣秀吉と謁見して本領が安堵され、さらに「奥州仕置」の際は奥州に進軍した豊臣軍の為に茶邸を造営して労を労ったと伝えられています。これにより本家である那須家からの独立を果たし、慶長5年(1600)の関が原の戦いでは東軍に与し、西軍の上杉家に対した功により2千7百石(芦野資俊は新田開発を行い3千石余に加増)が安堵されました。ただし、諸侯(大名)格では無かった為、芦野城は廃城となり、二ノ丸部分に改めて陣屋を設けて当主居館と領内の采配地としました。資泰の代には交代寄合の旗本となり参勤交代が行われるよになり、その後も明治維新まで芦野家が代々当地を支配しました。芦野陣屋は西南隅に表門、西北隅に裏門、郭内部には木造平屋建、木羽葺、桁行16間(約29m)、梁間6間(約11m)の御殿(玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台等)や井戸、土蔵などがありましたが、明治維新後に廃され、払い下げとなりました。唯一の遺構として陣屋の裏門が大塩家に払い下げとなり現存しています。芦野陣屋裏門は那須町指定文化財に、陣屋跡地は那須町指定史跡に指定されています。
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芦野陣屋裏門
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