下ノ切道(小泊道)概要: 下ノ切道は浪岡城の城下町から十三湖の東湖岸を経由して日本海の小泊港を結ぶ、津軽半島を縦断する街道で、小泊道や五所川原街道の別称があります。下ノ切道が中世、津軽地方を支配した安東氏により開削されたと推測される街道で、安東氏の旧本拠地である藤崎城が起点となり、新たな本城になったと推定される福島城、小泊岬の突端に築かれた柴崎城を結んでいると言えます。安東氏は平安時代に俘囚長として陸奥国の俘囚(朝廷にしたがった蝦夷)を纏める地位にあった安倍氏の後裔を自称する一族で、最盛期には十三湖の北端に位置する十三湊を拠点として日本海沿岸に大きな力を行使し室町幕府からは蝦夷管領を賜っています。津軽半島や十三湖周辺、下ノ切道(小泊道)の街道沿いには安東氏縁の史跡が点在し往時の繁栄の一端が窺えます。しかし、戦国時代に入ると南部氏の台頭により、安東氏は津軽半島の支配権を失い、現在の北海道や秋田県に一族が逃れ、十三湖周辺の繁栄も失われました。浪岡城には南北朝の動乱依頼、南部家の客将となった北畠氏が入り津軽半島や十三湖周辺の支配を引き継ぎましたが、その北畠氏も大浦氏(後の津軽氏)に敗れ浪岡城も落城しています。
下ノ切道(小泊道)は江戸幕府から認められた正式な街道ではありませんが引き続き生活道として維持され、街道沿いには多くの集落が点在し、特に金木集落は元禄年間(1688〜1704年)に弘前藩が本格的な新田開発を行い天和3年(1683)には金木川口御番所、貞享4年(1687)には金木代官所(金木組24か村支配)が設置されています。金木村からは多くの豪商も輩出され、中心的な存在だった津島家は明治時代に入り銀行を創建し、文豪太宰治の生家としても知られています(現在は斜陽館として一般公開されています)。十三湖は弘前藩の物資の流通経路でもあり、その拠点となった十三湊も安東氏時代からは比べようもありませんが、弘前藩からは青森湊、鯵ヶ沢湊、深浦湊と共に四浦として重要視されていました。小泊湊は三厩湊と共に蝦夷地への渡航湊として知られ、幕末には津軽半島防衛の軍事拠点として弘前藩の台場が設けられ、長州藩士吉田松陰も視察に訪れています。吉田松陰は羽州街道で弘前城下に入り、津軽半島を縦断する際に下ノ切道(小泊道)を利用したとみられ、中泊町の十三湖の湖畔には「吉田松陰遊賞之碑」が建立されています。民俗学の祖とも言われる菅江真澄も下ノ切道(小泊道)を利用した著名人の一人で、十三湖や津軽半島の集落の様子や風俗を紹介しています。
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