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恐山街道(下北半島)概要: 恐山街道は田名部宿から恐山菩提寺(本坊は田名部に境内を構える円通寺)まで結ぶ街道で、基本的に参拝者の為の参道的な役割を持ちました。開削時期も明確では無く、菩提寺の由来が正しければ貞観4年(862)に慈覚大師円仁(平安時代の高僧)によって開山されたとある事から平安時代には街道の原型となる参拝道が整備されていたのかも知れません。恐山は火山活動により形成された荒涼とした景観や硫黄臭、噴出す水蒸気、真っ白な砂浜(極楽浜)、生物が生存しない湖(宇曽利湖)など、死後の世界を彷彿させ、それを見た人々は恐れおののき、火山性ガス(亜硫酸ガス)を吸い込んだ人々は軽い嫌悪感を抱た事などから何時しか信仰の対象となっていったのかも知れません。日本古来からの祖霊信仰は身内が死んだら、近くの霊山に留まり、成仏した後に天界に昇華するといったもので、下北半島に住んでいる人々も死ぬと一端恐山に霊魂が集まると信じられ、その霊魂を「イタコ」と呼ばれる女性霊能者が口寄せして残された人達と交信するといった風習が現在にまで続けられています。その為、下北半島の人々は事ある毎に恐山に参拝に訪れ、この街道も多くの人々に利用されたと思われます。又、境内からは現在、恐山温泉と呼ばれる源泉が湧き出ていた為、湯治場としても知られ、往時は湯女もいる程に盛況だったとされ、信仰と遊興の両方が交じり合った場所だったのかも知れません。そのような中、文久2年(1862)の恐山千年祭りに合わせて街道が整備され、街道沿いには一町(約100m)毎に「丁塚石」が設置される事となり、下北半島の住民だけでなく、江州日吉(滋賀県大津市)や福山(北海道松前町)、大釈迦村(青森市浪岡町)などの出身者が寄進に賛同し、当時から恐山信仰が広く浸透していた事が窺えます。明治時代に入ると、恐山から産出される硫黄の大規模な採掘が始まり、新たに硫黄の搬出路として街道が整備され、参拝道は事実上廃され「丁塚石」も新たな街道に付け替えられました。昭和44年(1969)には硫黄鉱山が閉山になると、恐山の観光開発にも力を入れ昭和45年(1970)には「丁塚石」の補填が行われ、現在も58基が残されています。又、街道沿いにある恐山令水(霊水)は飲めば若返るとして現在も足を止めて喉を潤す人も多く見られます。
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田名部街道
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