|
|
八戸街道(上り街道)概要: 八戸街道は八戸城の城下町と奥州街道の福岡宿(岩手県二戸市)を繋ぐ街道で、八戸方面の人々からは「上り街道」や「登り街道」、「江戸街道」などと呼ばれました。中世の八戸一帯は根城(日本100名城)を本拠とする根城南部氏が支配し、一方、福岡は九戸城(九戸氏)を本拠とする九戸氏が支配しました。根城南部氏は南部家宗家とされる三戸南部家の祖、南部光行の3男・実長を初代とし、九戸氏は光行の6男・行連を初代とした為、両氏は南部家の有力一族でしたが、戦国時代には宗家を凌ぐ勢力となり互いに牽制し時には対立する関係となり、八戸街道(上り街道)も根城と九戸城を結ぶ重要な軍道として重要視されたと思われます。豊臣秀吉による小田原の役では宗家である三戸南部氏だけが所領を安堵され、根城南部氏と九戸氏はその家臣として組み込まれると、根城南部氏は従ったものの、九戸氏は反旗を翻し、所謂「九戸の乱」が勃発します。当時の当主、九戸政実は領内の反対勢力を纏め上げ攻勢をかけると、三戸南部氏は敗北、乱を鎮める事が出来ず豊臣家の奥州仕置き軍に乱の平定を要請し、九戸氏と豊臣家の対立まで発展します。豊臣の大軍に囲まれながら難攻不落を誇った九戸城は何度も大軍を押し返し、結局力では落城出来ず、和睦を条件に開城させた後、九戸氏をはじめ城兵悉く討ち取られたと伝えられています。根城南部氏は形式上は三戸南部氏の家臣となっていましたが、実際は半独立的な立場を認められ、依然として八戸周辺を支配し続けました。寛永4年(1627)、22代根城南部直義が遠野領(岩手県遠野市)に移封になった事で宗家は根城南部氏の家臣として組み込みに成功し、象徴的な存在だった根城を廃城として新たに八戸代官所を設けて八戸一帯の支配強化に努め、明暦3年(1657)には盛岡藩2代藩主南部重直が領内の街道整備を行い、それに伴い八戸街道も現在に近い形で整備されたと思われます。寛文4年(1664)、盛岡藩で4代藩主を巡り七戸重信、中里数馬の間に御家騒動が起こり、幕府からの裁定で重信に盛岡藩8万石を継がせ、数馬に盛岡藩の八戸領2万石を分知させ八戸藩が立藩します。形式的には八戸藩は盛岡藩の支藩ではなく独立した藩という事となります。その為、参勤交代が生じ、八戸街道(上り街道)が経路として選定され重点的に整備されました。八戸城(立藩当初は陣屋で、天保9年:1838年に城主格に格上げされた事を受けて八戸城となった)から福岡宿までは比較的距離も短い事から宿場町は設けず、観音林集落(岩手県九戸郡軽米町)に藩主の休息所となる御仮屋を設けて事実上の本陣とし、市野沢集落(青森県八戸市南郷区)と観音林集落に伝馬継所を設置しました。福岡宿は引き続き盛岡藩領で、当地域の軍事、行政、経済の中心として重要視され藩の代官所が設けられ役人が派遣され統治されました。現在でも八戸街道沿いには随所に当時の街道の遺構が残され、特に一里塚は原型を留めているものが多く、当時の交通施設の遺構として貴重な存在とされています。
|
|
|
|