百沢街道(青森県)概要: 百沢街道は弘前藩の藩主津軽家の居城である弘前城の城下町と祈願所である岩木山神社(青森県弘前市百沢)を結ぶ街道です。名称は地名である「百沢」に因むもので、岩木山神社の別当寺院も百沢寺と呼ばれていました。百沢街道が何時頃に開削されたのは不詳ですが、津軽家の祖とされる南部光信が本拠とした種里城(青森県鰺ヶ沢町)と光信の跡を継いだ大浦盛信の居城である大浦城(青森県弘前市賀田・五代)を結ぶ鰺ヶ沢街道が原型になったと思われます。江戸時代に入り、津軽家が大浦城から弘前城に本城を移すと、さらに街道が弘前城の城下町まで延長されたと思われます。青森県の中世の資料が少ない為、大浦氏(津軽家)の詳しい宗教観は判りませんが、居城である大浦城が岩木山の東の麓に位置している事から必然的に岩木山神社を篤く崇敬していたと見られ、天正17年(1589)に岩木山の噴火で岩木山神社(当時は百沢寺と呼ばれた)の社殿(堂宇)が壊滅的な被害を受け、後に初代弘前藩主に就任する津軽為信により再建が図られています。その後も岩木山神社は津軽家の信仰で重きを持ち、百沢街道の両側には元禄年間(1688〜1704年)からアカマツとアイグロマツなどが植樹され格式ある街道へと整備が行われ、江戸時代後期に編纂された弘前藩の刑法典である「要記秘鑑」の文化6年(1809)の条に百沢街道の植栽と松並木育成策についての記載があり、篤く保護されていた事が窺えます。又、延宝8年(1680)には弘前藩4代藩主津軽信政により嶽温泉が開発され、一般庶民にも享楽思考が高まると、岩木山神社の参拝や嶽温泉の湯治などで多くの人達が百沢街道を利用するようになりました。
岩木山神社が何時頃に勧請されたのかは不詳で、多くの由緒や伝説があるものの、全てが江戸時代に編纂されたものとされる為、どの程度真実が含まれているのかは誰も判りません。一般的には現在の十腰内に鎮座する巌鬼山神社の境内地にあったとされ、神託により百沢の地に移ったとされますが、それすら確証がありません。
百沢街道から分岐して高照神社(青森県弘前市高岡神馬野)の参道に到る街道を高岡街道と言います。高照神社はかつて春日神が祭られている小社だったとされますが、津軽信政は神道に篤く傾倒した為、遺言により神道に即した埋葬が行われその霊廟として改めて高照神社が創建されました。社号は信政が信望した吉川惟足から賜った神号である「高照霊社」で、参道となる高岡街道は百沢街道と同様に街道筋には松の植樹が行われ特別視されました。吉川惟足は将軍徳川家綱を始め、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名からも信任され幕府神道方を担っていた人物で信政は惟足を師事し神道を学びました(前田家や保科松平家の墓地も神道形式で造営されています)。高照神社は当初、高照霊社と号していましたが、明治時代に入り春日神に改めて勧請され、現在の社号である高照神社となっています。
現在でも百沢街道と高岡街道の街道沿いには当時に植樹された松並木(推定樹齢:150〜300年・樹高:8〜18m)が残されており、名称「百沢街道および高岡街道の松並木」として平成11年(1999)に長野県指定天然記念物に指定されています。
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