乳井街道(青森県):大鰐温泉〜浪岡城

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概要・歴史・観光・見所
乳井街道(青森県)概要: 通称で「乳井通り」と呼ばれ、大鰐温泉の郊外に位置する乳井神社「鯖石の追分石」から羽州街道から分岐して乳井、平賀、尾上、黒石を経て浪岡宿で再び羽州街道と合流しました。羽州街道の脇街道的な存在で、煩雑した弘前城下を避けて北上出来る為、弘前城下に用がない旅人や商人にとっては使い勝手の良い街道だったと思われます。大鰐温泉は正式には羽州街道の宿場町ではありませんが、古くからの名湯として全国的にも知られた存在で江戸時代の温泉の番付表(現在のランキング表、江戸時代には相撲の番付表を模した様々な業種の番付表が発刊された)である「諸国温泉功能鑑」で行司役として記載され、弘前藩の藩主津軽家も御仮屋を設けて度々湯治を行ったと伝えられています。そこから少し離れた鯖石が羽州街道と乳井街道との分岐点で右に折れて暫く進むと乳井集落に入ります。この集落は戦国時代、「津軽の法師三大名」との異名を持った乳井玄蕃の居城である乳井城の城下町だった町で現在は乳井神社がその名残をとどめています。乳井神社は元々神仏習合の形態をとっていた事から「毘沙門堂」と呼ばれ、乳井福王寺の守護神的な存在で、玄蕃は形式上はその別当として毘沙門堂の祭祀を司る一方で周辺地域を支配下に入れて国人領主として大きな影響力を持つようになり、猿賀神社(青森県平川市)の別当も兼ねるようになりました。しかし、永禄8年(1565)に南部家の家臣で大光寺の城主である滝本重行によって暗殺され、跡を継いだ建清は同じく南部家と対立した津軽家に従い重臣として重用されました。黒石は江戸時代に黒石津軽家が配された所で、文化6年(1809)に津軽親足が加増され1万石になった事を受け黒石藩が立藩し黒石陣屋には藩庁と藩主居館が設けられました。黒石は小規模ながら武家屋敷が設けられ、周辺から商人達を集めて陣屋町として形成され黒石藩の藩都として行政、軍事、経済の中心地として発展しました。商人町だった中町地区は「こみせ(小見世)通り」と呼ばれ現在でも当時の町並みが色濃く残されている事から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。浪岡城浪岡宿は中世に北畠氏の居城である浪岡城(国指定史跡)の城下町として発展した町です。北畠氏は南北朝時代に南朝の有力武将で鎮守府将軍だった北畠顕家の一族とされ、宗家の没落に伴い同じく南朝方の武将として活躍した南部家を頼り当地に配され、戦国時代まで浪岡城を拠点として影響力を効していましたが、大浦(津軽)氏の侵攻により浪岡城が落城し大名家としては没落しています。浪岡城は廃城となりましたが、浪岡の地は羽州街道と乳井街道、大豆坂通りが交差する交通の要衝として重要視されました。浪岡宿周辺には浪岡城の他、浪岡八幡宮や本松加茂神社、北中野広峰神社、北畠氏墓地など北畠氏縁の史跡が点在しています。
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