由利本荘市: 吉沢集落

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吉沢集落
吉沢集落
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由利本荘市吉沢集落概要: 吉沢は矢島藩と本荘藩の藩境にあり、番所が置かれていました。矢島街道沿いに長く続く町並みですが店舗などは少なく、静かな山間の集落といったイメージを持ちました。ただ本荘藩として矢島街道の入り口として重要視していたと見られ、藩内ではトップクラスの吉沢神明社を配置しています。吉沢神明社の社殿はさほど大きくはありませんが当時の本荘藩お抱えの芸術家達が総員された豪華なつくりで国登録文化財に指定されています。
吉沢神明社
 吉沢神明社吉沢神明社は創建は1644年です。現在の建物は拝弊殿は1867年建立、屋根の裏は朱色に塗られ梁や柱、壁に獅子、竜、鳳凰、力士など細かい細工が施されています。内部は見ることが出来ませんでしたがこれらの仕事は本荘の棟梁や絵師によるもので永泉寺に劣らず由利本荘市を代表する建築と言えます。吉沢神明社本殿は波板が張られ様子がわかりませんでしたが大正4年に建立され、その内部に宮殿(明治16年に建立)があります。これらは、鳥居と合わせて国登録有形文化財に指定されています。吉沢集落には関所が置かれ、矢島藩と接していた為、本荘藩としてもかなり重要視していた地域のひとつ表れではないでしょうか。
吉沢番所
 吉沢番所江戸時代、吉沢集落は矢島藩と本荘藩の藩境にあった為、本荘藩が元文元年(1736)に番所を設置しました。基本的には通行人や荷物や物資の取り調べが主な仕事ですがいざと言うときには軍事拠点にもなりえました。中級クラスの武士が歴任し、任期は3年ほどでした。現在、番所の遺構はありませんが後年建てられたと思われる土蔵や池(堀?)があるのでそれなりに雰囲気はあります。
石碑群
 石碑群集落の最後尾に石碑群があり、その先には集落の墓地と吉沢神明社が鎮座しています。ここでの庚申塔は集落への出入り口である為、旅人に対しての安全祈願や病気や悪霊などが集落に入ってこないように結界的な意味合いが強いと思われます。又、良くは分かりませんが吉沢集落には寺院がなく、この石碑群と背後の建物が一種の宗教施設になっていたような感じを受けました。集落の内外の結界だけでなく生死の空間もここで分けていたのかも知れません。
畑中喜右衛門碑
 畑中喜右衛門碑案内板によると「江戸時代明暦の頃(1655年頃)吉沢集落の人家はわずか12戸にすぎなかった。当時は洪水の度に川岸が浸食されて田地をせばめ、家屋敷も危険にさらされていた。時の吉沢郷の名主、畑中喜右衛門(前郷)は、河川の修復を度々代官奥山源兵衛はこれを強訴として憎んで捕らえ、農民煽動の罪とさせ、万治元年(1658年)9月7日打ち首の刑に処した。処刑は、喜右衛門の希望により、川の見えるこの地「芋ヶ台」で行われた。死に際して喜右衛門は、「我亡き後も霊魂はここにとどまり、必ず川の流れを変えるであろう」と予言したという。その後、豪雨襲来、濁流氾濫し、ごうごうと天地を裂くがごとき音がとどろき、ついに川の流れを変え、現在のようになったと伝えられている。それからは吉沢の田地は広く美田となり今日の繁栄をみるようにようになった。貞享3年(1686年)吉沢部落民は喜右衛門の殉難の大志を追慕し、この地に碑を建立し、毎年命日には御霊を慰めている。」とあります。
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