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笹谷街道概要: 笹谷街道が何時頃に開削されたのかは資料が無く判りませんが、古代の陸奥国の国府が置かれた多賀城(宮城県多賀城市)と出羽国の国府が置かれた秋田城(秋田県秋田市)を結ぶ官道だったとされ、最上郷(山形県山形市)には「最上駅」、陸奥国と出羽国の国堺には有耶無耶関が設けられたとされます。有耶無耶関(笹谷峠の他には秋田県と山形県の県境にも有耶無耶関があります。)は枕詞になった著名な場所で「もののふの出るさ入るさに枝折する とやとや鳥の有耶無耶の関」と詠われています。文治5年(1889)の奥州合戦の際には、は阿津賀志山の戦いで敗北した総大将藤原国衡(奥州藤原氏第3代当主・藤原秀衡の長男)が出羽道を経て大関山(笹谷峠)を越え、金ヶ瀬の大高山神社の近くで討死しています。戦国時代には山形城の城主である最上家や米沢城の城主である伊達家が度々軍道として笹谷街道を利用し、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは岩出山城の城主伊達政宗が山形城の城主最上義光の要請を受け笹谷峠に家臣である留守政景に命じて派兵しています。江戸時代初期の羽州街道が開削される以前は笹谷街道は陸奥国と出羽国を結ぶ主要道として出羽国の諸侯は参勤交代の経路として利用されました。羽州街道の整備が終わった後は大消費地だった仙台城(宮城県仙台市)の城下町と山形城(山形県山形市)の城下町を最短距離で結んでいた事から物資の輸送経路として多くの人々が行き交いました。
笹谷街道の経路は仙台城の城下町から赤石で二口街道と分岐し、碁石、小野、川崎要害の要害町を経由して、最大の難所である笹谷峠(日本の秘境100選)を越えて山形城の城下町に至ります。藩堺では人物改めや荷物改めを行う為、山形藩では関沢に仙台藩では笹谷宿の現在の観音堂付近に番所を設けて管理しています。川崎要害は江戸時代初期に伊達家の家臣である砂金実常が築いた川崎城を前身とし、一国一城令で城郭からは降格したものの家臣団が周辺に配する小城下町として町割りされ、奥州街道の宮宿へと続く羽前街道の分岐点としての交通の要衝でもありました。山形県側では最上三十三観音霊場第5番札所唐松観音の前を通過し、万松寺に至ります。万松寺の境内背後にある「阿古耶の松」の伝説の主人公である阿古耶姫や、阿古耶の松を求めて出羽の地に辿り着いた藤原実方朝臣なども笹谷街道を利用したと思われます。山形城の城下町に境内を構える専称寺は最上義光が娘で豊臣秀次の側室として秀次事件に連座して処刑された駒姫の為に創建した寺院で、笹谷街道から北に入る場所に位置しています。専称寺は山形藩領の真宗系寺院96カ寺を統率格式を得て、城下町の中でも寺町を形成し、仙台方面の山形城の防衛面でも重要視されました。
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