阿気集落 |
![兜台神社](agi.JPG) |
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横手市阿気集落概要: 阿気集落(横手市)は沼館街道沿いにある集落です。周辺では本郷に当たる集落で中心地となっています。町屋などの古い建物はありませんが何店かの店舗が現在でも開いていて静かな町並みを呈しています。鎮守である兜台神社(阿気八幡神社)の創建は古代からを数え坂上田村麻呂や源義家などが戦勝祈願に訪れていたそうです。阿気集落に伝わる「鹿島送り」は藁で作られた舟に鹿島人形を乗せ町内を練り歩き最後には川に流すそうです。このような風習は「虫送り」行事と言われ、集落内部や自分達の体の中に入ってきた悪霊や疫病などを集落の外へ追い出すもので、民俗学(民俗信仰)的にも大変興味深いと言えます。
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兜台神社 |
兜台神社(阿気八幡神社)は案内板によると「阿気八幡神社は千二百年の歴史を誇る神社で、別名「兜台神社」あるいは「鐙八幡」とも呼ばれている。神亀3年(716年)せ聖武天皇は全国に諸仏供養の勅命を下し、東北地方には越後の高僧大徳泰澄和尚を派遣して各地に寺院を建立したが、この地に安家山五穀寺(あげさんごこくじ)を建て、観世音菩薩を祭ったのである。西暦800年頃、桓武天皇は東北地方の蝦夷を平定しようと坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命した。各地で戦いながら我地方に進出した将軍は由緒ある観音菩薩の所在を知り戦勝祈願を行った。再びこの地を訪れた将軍は、そばの丘に自分の兜を埋め、その上に社を建てて戦勝報告と神助のお礼をしたが、この社が将軍山(勝軍山)兜台神社と呼ばれているのである。11世紀の中頃宮城岩手地方は、奥州の浮囚と呼ばれる阿部一族が領しており中央政府に対抗していた。朝廷ではこれを従属させようと、武勇の誉れ高い源頼義、義家父子を征討軍として派遣した。 康平5年(1062年)北上川近くの黄海で激突した両軍は、源氏の大敗におわり、頼義、義家父子は命からがらこの地に落ちのびてきた。この頃雄平仙は阿部氏と並ぶ剛三清原氏が治めており、この清原氏を頼って引き揚げてきたことから、この地は「引き揚げの里」、「揚げの里」と呼ばれるている。源頼義、義家父子は、清原一族の一万の助力を得ると共に、田村将軍がこの地で戦勝祈願をして勝利した古事にちなみ将軍山に勝利祈願をするなどして体制を立て直し阿部一族を攻めたところ、見事に滅ぼす事ができた。戦勝者となった義家は、将軍山のご加護の賜物であると感謝し、自分の片足の「鐙」(馬具で、足をかける道具)を奉納した。鐙八幡とは、源義家が鐙を奉納したことからよばれているものである。」とあります。
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重福寺 |
重福寺の創建は寛文元年(1661)須藤権重郎の帰依を受け天徳寺14世一関道策を勧請したのが始まりとされています。周辺地域には寺院が少なかった為かかなりの寺運があったそうです。寺紋は須藤氏が佐竹氏の遺臣であった為、五本骨扇に月の丸です。戊辰戦争と昭和26年の火災でほとんどの建物や寺宝が焼失しまし、正面の仁王門は平成12年に再建したものです。
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鬼子母神 |
鬼子母神は案内板によると「一万人の子を生み育てる。もと幼児を食う鬼女であったが仏陀に末子の嬪迦羅を隠されて始めて親の心を知る。以来出産、育児の神となる。婆様と呼ばれ近隣の信仰があつい。」とあります。鬼子母神は川の麓に鎮座しています。他の庚申塔などは兜台神社の境内にある為、結界の一種のような感じを受けます。鬼子母神の講のようなものが今でも続いているのでしょうか?手入れがされています。
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