由利本荘市: 岩野目沢集落

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岩野目沢集落
岩野目沢
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由利本荘市岩野目沢集落概要: 中田代集落を街道沿いに進むと岩野目沢集落に着きます。集落の戸数は少ないのですが2軒の店舗が現役でやっています。小さなガソリンスタンド(現在開いているかは不明)もあります。岩野目沢は保呂羽山へ行く道と本荘街道の万願寺へ抜ける道が交差する結束点にあり、ある程度開発されていたのかもしれません。又、岩野目沢には楢淵寺という寺院があります。明治時代が創建の比較的新しのですがこの地域が重要視されていたことがわかります。
楢淵寺
 楢淵寺岩野目沢集落はあまり大きくありませんが寺院があります。元々この周辺にはなかったそうですが官許をえてこの地に明治12年(1879)に建立されました。現由利本荘市の北の又北の股の小松権之丞が尽力を尽くしたそうです。念願だった思いは現在でも引く継がれ管理が行き届いている印象を受けました。楢淵寺は集落のは入り口の高台にあり、坂を登りきると山門があります。建物自体もけして派手さはなく周囲と溶け込んでいます。
太子堂
 太子堂岩野目沢集落の手前を本荘方面に曲がると代内集落があり、太子堂が鎮座しています。太子堂の創建は天正年間(1573〜1592)に佐々木美濃介が美濃国から聖徳太子像を持ってきたと云われています。その後修験道場的な存在となり、円空(円空は美濃国が生誕の地という説が有力で何かの縁か?聖徳太子像の話を聞きつけたのか?)もここに訪れて観音座像を一体彫りあげそうです。宝暦年間になると赤田の大仏を建立した是山和尚が再興して今の地に建立し慈雲豊国寺と名前を改めたそうです
藤九郎翁の頌徳碑
 藤九郎翁の頌徳碑案内板によると「岩野目沢肝煎り役、松永藤助を父として文政7年7月に生まれた。自らも天保7年13歳に父の跡を継いで肝煎り役をつとめたと言われる。当時、村人の暮らしは大変苦しかったため田畑を開墾したり、飢饉にそなえ義倉をもうけて米を蓄えるなど、救民思想が強かったことから、「田の神」と称されていた。安静6年には、北海道で馬鈴薯の栽培法やその加工法などを伝え、村に帰ってこれを村人に伝授栽培させた。北海道の一地方では今も「藤九郎芋」の名があるように、馬鈴薯の栽培を普及しながら行脚した。この岡田藤九郎の徳を偲び、実績を讃える石碑である。」とある。

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