二井宿街道(安久津八幡神社)

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概要・歴史・観光・見所
二井宿街道概要: 二井宿街道は米沢街道の赤湯宿(赤湯温泉)と七ヶ宿街道湯原宿を結ぶ街道で、竹森村、安久津村、二井宿村、二井宿峠を経由しました。江戸時代に入り金山峠や楢下宿が整備され羽州街道の経路が確定される前は二井宿街道の方が主要街道として認識されていました。二井宿街道が何時頃に開削されたのかは判りませんが、街道沿いには7世紀後半に築造された羽山古墳をはじめ小規模ながら数多くの古墳が点在している事から、当時から文化、流通の経路として存在し交通の要衝として豪族が支配し古墳が築かれたと推測されます(往時は10数基の古墳から成る羽山古墳群だったそうです)。

平安時代に入ると文化的にも発展し、大同2年(807)には東北地方に広く仏教の教えを広めた徳一上人により亀岡文殊堂(日本三文殊)が創建され、貞観2年(860)には天台宗の高僧として知られる慈覚大師円仁が安久津村に阿弥陀像を安置する阿弥陀堂を造営、平安時代末期の奥羽の動乱の際に源義家が当地まで進軍して阿弥陀堂で戦勝祈願を行い見事勝利すると氏神である八幡神を勧請し、後に安久津八幡神社と呼ばれるようになっています。安久津八幡神社は歴代領主からの信仰の対象となり金沢文庫(神奈川県横浜市金沢区)にもその存在が記された古文書が所蔵されるなど広く知られた存在となりました。鎌倉時代には、街道沿いに眼病に御利益がある菅谷不動尊(新潟県新発田市)から不動尊を勧請し大滝不動尊が創建され人々の往来も多くなったと思われます。

行政的には平安時代末期頃から奥州藤原氏の勢力下に入り藤原氏一族である樋爪季衡が当地に配され承安年間(1171〜1174年)に高畠城が築かれ、奥州藤原氏が滅ぶと長井氏の支配下に入りました。しかし、南北朝時代には伊達氏の台頭により高畑城は伊達家の持城となり梁川城(福島県伊達市)に移るまでは本城として利用されています。伊達氏によって二井宿街道の整備は必須であり九州出身の浪人である島津氏が新たに二井宿峠を開くと関守に命じて街道の便宜を図っています。戦国時代に入ると軍道としても利用され天正2年(1574)の最上合戦では伊達輝宗が新宿(二井宿)に布陣し、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは二井宿峠(玉ノ木原古戦場)で伊達氏と上杉氏との戦が行われています。

江戸時代に入り羽州街道が開削されると、諸藩の参勤交代で利用する主要道では無くなりましたが、米沢藩の物資輸送の経路として重要視され、米沢藩の年貢米が二井宿街道と七ヶ宿街道を利用し阿武隈川舟運により江戸まで運ばれています。高畠城は米沢藩上杉家の管理下に入りましたが(一国一城令後は高畠城は排され陣屋構えとなった)、その後石高が半減された際に天領となり、江戸時代中期から後期にかけては織田家による高畠藩の陣屋が設けられました。現在でも街道沿いには数々の文化財が点在し、中でも江戸時代後期に造営された安久津八幡神社三重塔は異彩を放っています。

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