半田銀山(桑折町)概要: 半田銀山は伝承によると大同元年(807)に発見されたのが始まりと伝えられていますが、明確な記録などが無く、事実上慶長3年(1598)、五大老となった上杉景勝が会津に移封になってからとされます。慶長5年(1600)の関が原の戦いでは上杉景勝が西軍に加担した事で120万石から30万石に減封となり居城を会津城(福島県会津若松市)から米沢城(山形県米沢市)に移されます。新たに立藩した米沢藩は石高が極端に低くなったものの家臣の数を減らさなかった事から藩の財政は逼迫し半田銀山の重要性が高まり、3代藩主上杉綱勝は家臣である伊達平十郎と栗林鋪に命じて本格的な開発行います。寛文4年(1664)、綱勝が跡継ぎが無く死去すると綱憲(綱勝の妹と吉良義央との子供)を末期養子として認められたものの15万石に減じられ、半田銀山のあった伊達郡も取り上げられました。その後、福島藩領となり藩主本多家によって開発が続けられ、本多家が移封になると桑折藩領となり藩主松平家の支配となりました。延享4年(1747)に桑折藩が廃藩になると天領となり半田銀山は幕府佐渡奉行所支配となり寛延2年(1749)からは幕府の直接支配となり、石見銀山(世界遺産)や生野銀山(近代化産業遺産・日本の地質百選)で実績のある役人や技術者が動員され活況を呈し佐渡金山、生野銀山とともに日本三大鉱山(時代によっては・院内銀山(秋田県指定史跡)・延沢銀山(国指定史跡)を挙げる場合もあります)と呼ばれました。天明6年(1786)に減産を理由に閉山し、享和3年(1803)に再び開坑、しかし元治元年(1864)に幕府の直山が解除され明治3年(1870)に閉山しました。明治7年(1874)からは日本鉱業による近代化が図られさらに明治9年(1876)にフランス人技師コアニーを召還し一時増産しましたが昭和25年(1950)に閉山しています。半田銀山の遺構である二階平坑口は案内板によると「・・・(前略)二階平坑口は、矢筈山の中腹部にあって、嘉永7年(1854)の開抗とされ、北西の方向に掘り進み、2,300尺(766メートル)で鉱脈に達し多量の鉱石を採取したといわれる。坑口は、桑折、国見町を通じ半田銀山跡に開口されている唯一のものである。 国見町教育委員会 」とあります。半田銀山二階平坑口は昭和63年(1988)に国見町指定史跡に指定されています。
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