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関宿(七ヶ宿町)概要: 関宿は七ヶ宿街道の中でも中心に位置し最大の宿場町として発展しました。本陣は渡辺家が歴任し、幕末の頃には東海道品川宿の本陣クラスの規模(226坪)を誇り、一晩で200名程宿泊出来たそうです。慶応4年(1868)には奥羽越列藩同盟の前哨でもある会議(関会談)が渡辺家で行われ、会津藩(梶原平馬)をはじめ仙台藩(但木土佐・坂英力・真田喜平太・泉田志摩)、米沢藩(木滑要人・大滝忠恕・片山仁一郎)などの家老や要人が秘密裏に集まり、最善策を講じていた歴史的舞台の1つでもありました。現在建物は破却され庭園の一部だけが残されています。宿場の中程には鎮守と思われる水分神社(旧御岳蔵王権現社)が鎮座し蔵王信仰が根付いていた事が窺えます。関の地蔵は享保年間(1716〜1735年)に建立されたもので、滑津宿にある久保田藩主佐竹公と宿場の娘と恋物語が伝わる振袖地蔵と対な関係で、配置的にお互い向き合い、方向を変えても不思議と元の向き戻ると伝えられています。関の地蔵は水分神社(旧御岳蔵王権現社)の別当を務めた金宝山円蔵寺が管理していましたが、江戸時代後期以降無住となり渡瀬宿にあった養源寺の所管となったそうです。江戸時代には七ヶ宿地域は凶作が多かった事から生活苦となり農民達の中で堕胎(間引き)が横行したとされ、関泉寺には「間引き戒めの絵」が江戸時代中期に製作され、住職がこの絵を使い住民に対して説教していたと伝えられています。
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関宿 |
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