脇本集落 |
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追分
上出戸
下出戸
江川
天王
船越
男鹿市
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男鹿市脇本集落概要: 脇本は中世に安東氏が築いた脇本城の城下町として発展しました。安東氏は元亀元年(1570年)ころ日本海に面する標高100前後のこの地を拠点の1つに定め築城しました。城は、大きく分けて内館地区、馬乗場(古館)地区、兜ヶ崎地区の3地区からなる大規模な山城で、東北最大級の広さを誇ります。直下には交易に備え湊を整備し、現在でも安東氏ゆかりの寺院が残っています。しかし、現在では商業の集積は薄く町並みはかなり静かな感じを受けます。
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脇本城 |
脇本城概要: 脇本城は中世の山城で安東氏の居館の1つで天正5年(1577)に安東愛季が大規模改修しました。東北最大級と言われ、城が築かれた丘稜地の面積は約150haあります。大きく内館、馬乗り場、兜ヶ崎の三箇所が中心となりそれぞれに郭が複雑に配置され、空堀、土塁、虎口、井戸跡などが残っています。縦土塁や縦堀など独特な配置をされ、城内には「天下道」や「田谷沢道」などの古道も残り、中世の城跡の典型的といわれ大変貴重な史跡となっています。脇本城は男鹿半島の付け根に位置し日本海につき出た丘稜地を利用している為、海側が断崖絶壁で守り易く、海上交通や貿易にも有利な地だったと思われますが江戸時代前後にして廃城となりました。現在は国指定史跡として発掘調査も続行中です。
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菅原神社 |
案内板によると「学問の神菅原道真公を主神とする当神社は生応年中(鎌倉時代)の創建にして、当時男鹿を領していた安東氏の氏神として祀られ男鹿鎮守の総社となし、神領160石を寄進、その後安東愛季、実季引き続き崇敬、天正19年再建す。安東氏常陸の国替の時遷座しようとしたが当地に鎮座の由託宣が下り以降、脇本村で維持管理することになる。・・・(後略)」とあります。元々脇本城本丸にあったそうですが、地震等で現地に移し、江戸時代に入ると藩主佐竹公からも崇敬され何度か奉納物がありました。基本的に神仏混交で明治時代までは山伏修験との共同で管理していたようです。周辺の様々な神社と合祀し脇本集落の鎮守として大切に守られています。集落からは国道101号線を挟んだ向かいにあり、かなり急な階段を登ります。階段は苔むして歴史の重みを感じる事が出来ます。境内からの眺望は素晴らしく、脇本集落や日本海などが一望できます。
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男鹿半島 |
男鹿半島概要: 男鹿半島は秋田県を代表とする観光地として有名で年間を通して多くの観光客が訪れています。男鹿半島は元々火山島だったとされ、半島のいたるところでその形跡を見る事が出来、その独特な景観は時には信仰の対象や伝説の原点にもなっています。中世には修験僧の修業場として山岳信仰の盛んな場所となり、現在でも男鹿半島には「赤神神社五社堂」や「真山神社」、「万体仏」などの遺構数多く残っています。
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