横手市:山内相野々集落

 
横手市:山内相野々集落 
 
 たった1人の秋田まちづくり委員会羽州街道平和街道横手市山内相野々集落


山内相野々集落



横手市山内相野々集落概要: 横手前郷から大沢を経ると相野々集落に着きます。相野々集落は小松川街道と筏、南郷集落へ続く道の結束点である要地で、この地域を治める為重要視された場所です。中世には鶴ヶ池付近に和田城が築かれ周辺の押さえとしていました。相野々集落は現在山内地域の中心地になっていて、鶴ヶ池畔には塩湯彦神社の遥拝の為、昭和12年、鶴ヶ池塩湯彦神社が建立され司祭場となっています。



山内相野々集落


 

(1)和田城
 和田城和田城は案内板によると「この景勝地を訪れた菅江真澄は、濃緑の繁る山々と鶴ヶ池の稜なす風光に嘆称を惜しまず、「またなき処なり」と記しました。また、この池が古い城址であることも後世に伝えています。それにより、地元での調査も行われ明治44(1911)年ころ著述の「土渕部落郷土史」に「昔和田四郎此地ニ城ヲ築キ、池ニ鶴ヲ放養シテ観賞セシ所」と明記されました。池は昔からワダシコ(和田城)の沼とも言われ、北東端の削平地が本曲輪、東のほとりはシバ(陣場)、南の坂道はヨガ(要害)坂とよばれていました。和田城今、鶴寿苑の建っている地点は物見山と伝えられています。本曲輪(標高130メートル)の規模は、東西80メートル、南北70メートルと広大です。しかし、遺構の大方は公園等の造成により、原状変更が多く殆ど確認出来ません。和田城址の場合、横手川・黒沢川の合流地を選地した城郭で、内堀、土塁などの防衛施設が少なく、陣場を内包している特異な構えから、築城は室町時代あたりと推定されています。・・・・(後略)」とあります。

(2)塩湯彦鶴ヶ池神社
 塩湯彦鶴ヶ池神社塩湯彦鶴ヶ池神社は案内板によると「千古の式内社であり清原氏の氏神であった塩湯彦神社の本殿は、ここから北方約10キロメートルの大松川字御嶽山3番地に鎮座している。この塩湯彦鶴ヶ池神社は昭和12(1937)年、御嶽山上の本殿を遥拝するため建立された。」とあります。現在力士像は隅木部分に3体あります。もう1体は何らかの理由で欠落したと思われます。昭和年代に作られたせいか小ぶりで精練された印象を受けました。

(3)比叡山神社
 比叡山神社相野々集落から筏集落に入ると比叡山神社が鎮座しています。案内板によると「比叡山神社は天台宗延暦寺との関係が深く、1か月各日を結番して守護する善神20座を祀り、三十番神社とも呼ばれてきました。神社縁起によると808(大同3)年創建の古社であり、後の1575(天正3)年に小野寺景道から社領30石を授かり、比叡山神社翌年善美を尽くして「社堂二間四面南向、萱葺に建立」し、大晦日の夜半、、麻柄の松明を二本立て祭礼を営んだと伝えられています。現在は大松明と奉納相撲による年(作柄)占いが、元旦(早朝)恒例の神事として行われています。」とあります。境内には「筏の大杉」と呼ばれる樹齢1000年以上の大杉があり、秋田杉としては日本有数だそうです。

(4)筏隊山神社
 筏隊山神社相野々集落から筏集落に入ると筏隊山神社が鎮座しています。案内板によると「筏隊山神社は古くから「筏の仙人さま」と称され、社家として奉仕する高橋家の先祖が伯耆国から鎌倉時代後期この地に移り住み無病息災を祈願して氏神として、奉斎したのが始まりと伝えられています。三河国(愛知県)の人菅江真澄が、文政8年(1825)この神社に参拝し「雪の出羽路」に次のように記してあります。「正中2年(1325)創建「阿羅羅仙人ノ社」、「仙人権現」と言い、陸奥国(岩手県)仙人峠から神々を遷座してものであろう。」と鮮やかな色彩の図絵を添え当時の様子を鮭禁忌の民間説話とともに記録しています。また天正年中(1573〜92)横手城主小野寺遠江守が重い疱瘡に罹り平癒を祈願しその真心がかない全快、その奉賽に社領などの寄進があったとつたえられています。・・・・・(後略)」とあります。