矢吹宿 |
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矢吹宿(矢吹町)概要: 矢吹宿は中世、石川氏により築かれた矢吹城(城郭)の城下町が発生の起源で天正6年(1578)に奥州街道の原型となる街道の宿場となり、天正18年(1590)に町割りが行なわれたとされます。地名の由来となったとされる矢吹神社の創建は康平年間(1058〜1065年)、後三年合戦の折、乱を平定した源義家が勝利の凱旋の途中に当地に立ち寄り氏神である八幡神を勧請し残った矢柄で社殿の屋根を吹いた事から矢葺→矢吹になったと伝えられています。江戸時代に入り宿場制度と参勤交代制度が確立し、本陣(古川屋)、脇本陣(筑前屋)、検断、問屋なども設置されると多くの人達が集まるようになります。享和元年(1801)に十返舎一九によって発刊された「方言修行金草鞋」では「名物に愛でてや人もきのえねか ここは二股大根そば」や「行列の弓もひききぬ蕎麦切は、矢吹の宿に名物の的」などの一節が記されていて当時の矢吹宿の名物が蕎麦だったことが想像されます。又、松尾芭蕉も元禄2年(1689)4月21日(現在の6月8日)午後3時半頃、「奥の細道」行脚の途中で矢吹宿の旅籠に曽良と共に一泊しています。戊辰戦争では奥羽越列藩度同盟側の本陣が敷かれ、主要の寺院だった幸福寺が今で言う戦時病院の機能を果たし、戦死者が葬られています。宿場内も戦場となり多くの家屋が焼失したとされ、慶応元年(1865)に創業した大木代吉店は焼け残った蔵から酒を傷ついた兵士達に振舞ったと伝えられています。現在の矢吹宿は多くの古民家が建て替えられ古い町並みは残っていませんが老舗の造り酒屋や本陣の門、大正ロマン館などの近代洋風建築が残り歴史の一端を伝えてくれます。
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